飛行機 予約を検証してみる

旅行市場は、一見成熟しているかのように見えるが、実は歴史の浅い産業で、戦いはまだ始まったばかりというところである。 社史に見る旅行業の生い立ちとJTB持費や先行投資が必要な施設・設備を持たないからリスクが少なく、ヒトやモノの移動だけで手数料を稼ぐことができた。

銀行や証券会社に似た「フィー(手数料)ビジネス」で、大きな資本なしに戦後、急成長を遂げることができた数少ない業界ともいえる。 とはいえ、金融と同様、サービス産業の範嬬にありながら、旅行業やそこに従事する人たちのステイタスは、比較的低い位置づけにあった。
昭和の大旅行ブームが到来して以降、日本が豊かになるにつれて旅行市場も成長し、一つの業界として形成されていった。 JTBが長いこと、社是の中に「総合旅行産業」を掲げ続けてきた背景には、代売業や代理店業からの脱却を強く願ってきたということがあった。
JTBの歴史をひもとけば、旅行業がチケットの代売から進化、発展したビジネスだということがよく分かる。 「本会ハ外客ヲ我邦二誘致シ且是等外客ノ為メニ諸般ノ便宜ヲ図ルヲ以テ目的トス」(会則第一章・総則第一条)。
これは、明治時代の終わりにつくられた「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」の会則だ。 現在のJTBの「起源」である。
これによるとJTBは、欧米からの来日誘致・旅行斡旋を目的に設立されたことが分かる。 外貨獲得や、日本における旅行振興などを目的に、国策的なミッションのもと設立されたジャパン・ツーリスト・ビューローは、当初は会員制をとっていたのである。
外国人客が多い長崎や横浜、そして東京駅構内に設けた旅行案内所で、外国人向けに切符を販売しはじめたが、大正時代半ばには大陸への往来も盛んになったので、特殊連絡線や省線(のちの国鉄)の切符を、日本人に対しても販売するようになった。 さらに、日中戦争が進展すると、満州にも支部が置かれるようになり、旅行斡旋は中国全士への拡がりをみせた。
会社名を中国・満州の人たちにも理解されやすいよう、四一(昭和一六)年、英文名をやめて、漢字表記の「東亜旅行社」に改称した。 一九二一(明治四五)年、東京・呉服橋にあった鉄道院(のちの国鉄)庁舎において、「ジャパン・ツーリスト・ビューロー設立総会」が開催された。
これがJTBの発祥で、本部は鉄道院内の総裁応接室に置かれた。 ときの内閣総理大臣は西園寺公望で、鉄道院総裁は原敬が内務大臣と兼務していた時代である。
設立からわずか二年後には、第一次世界大戦が勃発し、欧米からの来日客は激減し、ジャパン・ツーリスト・ビューローは早くも経営難に陥る。 外国人からの会費が思うように収受できなくなったため、その打開策として鉄道や船などの切符の受託販売を開始することになったのである。
これが、今日の旅行業の原型であるチケット代売の、JTBにおける始まりとされているJTBの設立渡航自由化を受け羽田を発ったハワイ観光旅行団第一陣(1964年)、大卒初任給が2万円程度の時代,旅行費用は36万4000円だった。 その翌年、社団法人から財団法人へと改組を経るも、戦争のさなかには「旅行」という文字が時局にふさわしくないとされ、一九四三年、「東亜交通公社」に改称された。
東亜交通公社が、「日本交通公社」に改称したのは、終戦の年、四五(昭和二○)年のことである。 英文名も、ジャパン・ツーリスト・ビューローから、「ジャパン・トラベル・ビューロー」へと改められた。

現在の「JTB」は、この頭文字をとっている。 ときのマッカーサー元帥一行を厚木基地に斡旋したほか、復員業務や進駐軍の斡旋にも携わり、JTBは戦中・戦後も業務を続けたと記録されている。
「財団法人日本交通公社」の営業部門が「株式会社化」されたのは、それから一五年も後の六三(昭和三八)年で、翌年開催された東京オリンピックを契機に、国内交通網の整備が一挙に進んだときである。 陸では新幹線が開通し、空にはジェット機が就航した。
日本は、本格的な大量高速輸送時代を迎えたのである。 同時に、海外旅行が自由化され、七○(昭和四五)年の大阪万博開催の年には、それまで特定の人にしか発給されなかったパスポート(五年間の数次往復旅券)が一般に発給されるなど、誰でも海外渡航することができる時代を迎えた。
列車の切符や航空券を代売するだけでも、「業」として成り立つ時代が到来し、雨後の笥のように旅行代理店が誕生したのである。 つまり、旅行業が一つの「生業」として歩みを始めてから、まだ半世紀も経っていないということである。
初のJTB生え抜き社長の誕生「株式会社日本交通公社」として再出発を果たしたJTBだが、旧国鉄との相関関係や史実を語らずに、今ある姿を理解するのは難しいだろう。 当時国鉄は、JTBの株式の三七・五%を有する筆頭株主だった。
その生い立ちや歴史を見ても国鉄との関係は蜜月の時代が長かった。 株式会社化した六三年、当時のJTBのスローガンには、「チケット・エージェントからトラベル・エージェントへの移行」という言葉があり、変革への息吹を感じさせる。
「代売業からの脱却」の必要性は、このときすでに社内で論議されていたが、現実には、収益の大半を、やゆ国鉄の切符や定期券代売が占めていたから、JTBは、「なまぬるい体質」「ミニ国鉄」と郷撤されることもしばしばだった。 しかし、独自色を出すことは難しい時代だったのである。
現在のようにコンピューター化されていなかったので、切符を売る担当者は、あらゆる駅名と路線を熟知し、まるで熟練工のような手さばきで切符の手配や作成(手作業だった)をしていた時代である。 歴代、国鉄出占、国鉄出身者が経営のトップを務めてきたが、八二(昭和五七)年六月に、初のJTB生え抜きの社長が誕生した。

東亜旅行社時代に入社し、その後、応召兵としてシベリア抑留生活を経験して、復職後は、日本が東京オリンピックに沸く時代を、ニューョーク支店長として海外赴任を経験した大正生まれの石田博(故人)である。 JTBも、石田が起用されたことによって大きな転換期を迎えた。
中曽根政権の八五(昭和六○)年の暮れ以降、国鉄改革案が本格的に審議されはじめ、難航を重ねつつも翌年には、国鉄の「全国六分割民営化」が参院本会議で可決された。 ジャーナリストで、JTBに籍を置いたこともあるT氏が発表した「JTBのテイクオフ作戦」含Voice』ビジネス特集・一九八九年新年増刊号)と題する記事の中で、当時の日本交通公社を一つのコインに見立て、次のように語っている。
「コインの片面は国鉄依存による安定経営を目指しつつ、しかし隠れた片面には、(国鉄からの)介入や支配を防御している(一部抜粋)」という。 社員の誰もが口をつぐむ、「表裏一体」の構図を活字にしたのだ。
石田以下、当時の経営首脳陣は、「代売業からの脱却」というシナリオに、ついに千載一遇のチャンスが訪れたと直感したのだと、当時の経営企画室室長だった末宗直人は語る。 また、当時石田は、国鉄民営化が審議されるさなかも、代売の手数料率や代理販売権の交渉のために国会議員を訪ねて歩いたとも伝わる。
国鉄からの緩やかで、ダイナミックな「離陸」をはかろうとした石田の苦労があったようだ。

飛行機 予約サービスの評価に関する耳より情報を公開しています。
あなたの知らない飛行機 予約のお得情報を個用意いたしました。
飛行機 予約のご相談に丁寧にお答えいたします。飛行機 予約の相談ならココです。